地球環境問題は、今や研究者だけの関心事項ではなくなった。私の回りでも学生たちの関心は高く、書店でも「環境問題」が一つの書架を占めている。また、図書館では児童書のコーナーにも見易く工夫された解説書が何冊も見受けられる。
研究者の活動も盛んで、学会や産業界レベルでも数多くの国内会議や国際会議が開催され、世界規模で見ると膨大な情報が交換されている。しかし、この関心の高まりは、必ずしも問題の解決と結び付いていないという思いは、研究者に限らず、誰しもが抱いているのではないだろうか。「開発と環境」の問題一つ取っても、「持続可能性」という語の多義性、解決への困難さがむしろ先鋭化してきたように思われる。
環境問題に関する内外の会議に参加してまず感じたことは、参加者のバックグラウンドの広がりと推移であった。地球温暖化問題、フロン問題の重要性は、まず物理学者から指摘された。エネルギー・資源問題は、石油ショック以来、工学者と経済学者が係わってきた。やがて議論が条約、制度と具体的なものになるに従い、産業界、政治学者、法学者に主役が移り始め、次第に行政の役割が重くなってきた。
一方、地球温暖化は、水圏、生態圏に変化を与え、森林さらには食糧需給に影響を及ぼす。農学者、生物学者は地球環境と生態圏の関連研究を進めてきており、この分野を評価する立場から近年特に積極的に発言している。
このように、この問題は全ての学問分野に広がり、そしてこの問題への解決の糸口を探るうち、ついにどの研究者も他の領域に立ち入らざるを得ない状況になってきた。
改めて「地球環境問題」を考え直したい。何が問題なのだろうか。キーワードとしての"sustainable development"という語は、一体「誰が」「何を」持続し、何を「守ろう」としているのか。一見自明のようなこの質問に、なぜ解決策が容易に見出せないのだろうか。私はここで、この問題の多義性にマズローを援用して論じてみたい。
「有限な資源」の「人類への効率的かつ公正な配分」という命題は、理念としては誰しも否定し得ない。しかし、「人類」という概念の抽象性に比べて、自分という「個」、家族、民族という「族」集団の方がはるかに概念としてはリアリティを持つ。人類は、「貧困」という災いから逃れるため、まず「個」として「族」としての生存を確保してきた。集団の存在理由は、やがて「生存」から「安全」になり、他集団からの「尊敬」、時には「威信」という「自己実現」にもなった。それは、「貧困」と並ぶ「戦争」という最大の不幸の源泉でもあった。そこには「個」の生存のため「集団」が逆に「個」を脅かすという矛盾、何より「欲求」という「生」が「生存」と対立するという根本的な矛盾があった。
もし、主体と欲求レベルが一元化されていれば、問題は発生しなかったのである。「国家(法)」という概念は、「掟」、「神」、「道徳」、「イデオロギー」と同じく上記の矛盾を解決するために導入された「高次元の存在」という一つのフィクションと言えよう。さらに言えば、後の4者はしばしば消費を「悪徳」とみなし、現時点ての消費を抑えることで「族」の次世代の生存を確保しようとしてきた。そして、それらはしばしば国家の意思と相反した。
結局の所、これらのフィクションも「現在の消費のできる限りの抑制」には機能し得なかった。逆に経済成長という「消費社会」こそ、「内乱」と「貧困」を同時解決してきた最もリアリティがあるフィクションではなかったか。そこには、「文化」という武力以外の「個」の自己実現の場もあった。現代でも民族間の紛争は絶えないが、交易が盛んに行われ異民族が共存していた時代も長いのである。
しかし、生産が消費を維持できなくなり内部に消費格差が生じたとき、「他者」が生じた。そのような社会的不満の中では、一度どちらかが自分の生存が脅かされていると感じた時、しばしば大きな悲劇につながった。他者は他者を生む。堰谷雄高は、「『奴は敵だ。奴を殺せ。』どのような組織もこれ以外には叫び得なかった」と喝破している。
そして地球環境問題である。現代の消費社会が維持可能でないとするならば、共存のために更に高次元のリアリティあるフィクションを持たねばならない。未来の世代まで含めた「人類」という「種」は、どこまでリアリティを持ちうるのだろうか。
地球環境問題の解決への方策があるとすると、それは「個」から「種」に至る全ての段階で「生存」から「生」までの条件が満たされねばならない。あるいは少なくても侵してはならないと、私は考えている。資源問題、エネルギー問題も平均値で語るのみでなく、それが「雇用」と「消費」いう「個」の自己実現の最低条件を保証するものでなければならない。分配の問題は本質的である。社会システムは、「他者」を脅かすことも、脅かされることもないものでなければならない。「消費」は、資源でなく知恵を使う「文化」となるべきであろう。同時に、その方策はどの地域でも、次世代にとっとも同じ価値観で迎えられねばならない。
そのようなものが有るのかと問われれば、一介の工学者に過ぎない私としては、その必要条件のごく一部を探していますとしか答えようがない。しかし、改めて先の地球環境問題に参加した学問分野を見ると、まだ人文科学と医学という「人間」を対象とする二つの領域の参加が欠けていることに気付く。「個」と「種」の間、「生」と「生存」の間を満たす方策の探究に、この領域からの提言が望まれるところである。